池袋「キッチン チェック」が閉店──昭和の温もりと共に去った名店の記憶

池袋駅西口、ロサ会館の1階にあった「キッチン チェック」。このお店は、単なる洋食店ではありませんでした。 1968年の創業以来、昭和から平成、そして令和へと移り変わる時代の中で、多くの人々の生活に溶け込み、愛され続けてきた存在です。ハンバーグ、エビフライ、ビーフシチュー、オムライス──どれをとっても手作り感が溢れるメニューたちは、訪れる人々に幸福感を与え続けました。 私もその一人で、過去に数回訪れただけですが、目の前に出されたオムライスの鮮やかな黄色と、その中に隠されたふっくらとしたケチャップライスを思い出すたび、心がほっとするような感覚に包まれます。狭いカウンター席に腰をかけ、昭和の時代を彷彿とさせる店内で食事をする時間。それはまるでタイムマシンで過去に戻ったかのような特別なひとときでした。 しかし、2024年7月、「キッチン チェック」は閉店しました。 池袋における洋食文化を代表するこの名店が、ひっそりとその歴史に幕を下ろしたのです。この事実を知ったのは閉店後のことでした。「もう一度、あの味を堪能したかった」「まだ試していないメニューがあったのに」。そういった後悔が胸に込み上げます。けれど、私のように感じた人は少なくないはずです。閉店前日には多くの常連客が訪れ、最後の料理を楽しみながら店主やスタッフに感謝の気持ちを伝えたと聞きます。 老舗が消える時代──その背景を考える このような老舗の閉店が増えている背景には、現代特有のさまざまな課題があります。 「…

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富士通のコンサル人材増強計画を斬る:コンサルとは何者か?

「富士通がコンサル人材を1万人に増やす」というニュースを見て、筆者の頭に浮かんだのは一つの疑問だ――**コンサルって、そんなに必要なのか? 富士通は言わずと知れた日本の巨人企業。PCやソフトウェア、果ては量子コンピュータまで、技術と信頼を売りにしている。その富士通が、コンサル人材を現在の2000人から2025年までに1万人に増やすという。これが何を意味するのか、そしてそれが可能なのかを深掘りしたい。 「1万人のコンサル」は可能か? そもそも、コンサルタントを1万人増やすというのは、言葉で聞くよりも遥かに壮大な挑戦である。 コンサルは、専門知識、業界経験、分析力、プレゼンテーション能力など、さまざまなスキルの集合体だ。それを短期間で数千人規模で育成することは、ほぼ不可能に思える。 富士通が挙げた施策を見ると、リスキリング、キャリア採用、M&Aが柱となっているようだ。つまり、既存社員を再教育し、新人を採用し、さらには他社を買収して人材を取り込む――この三段構えで1万人を目指す。 だが、ここで問題になるのは「コンサルの定義」である。 コンサルとは、誰のことを指すのか? 「コンサル」という言葉は企業によって解釈が異なる。外資系のコンサルティングファームであれば、戦略立案や業務改革を推進する高度なスキルを持つ人材が主役だ。 しかし、日本企業の場合、「コンサル」の範囲が広すぎることがある。実態は「営業+α」の場合もあるし、「システムエンジニアに近い人」も含まれ…

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焼肉ランチで見る「格差社会」の縮図?焼肉KINTANの店内から感じた現代日本

土曜日の昼下がり、久しぶりに都心で焼肉ランチに出かけた。訪れたのは焼肉KINTAN。 知る人ぞ知る、カジュアルでリッチな焼肉を楽しめる店だ。その場はおしゃれで落ち着いた空間。料理は上品な見た目と豊かな味わい。そして、目に映るのは若い世代のカップルや友人同士が、楽しく会話を弾ませながら過ごす光景だ。 焼肉ランチというと、手軽にお腹を満たすというイメージを抱く人もいるかもしれない。しかし、ここKINTANは少し違う。提供される熟成肉や生肉のユッケ、洗練された内装、そして何よりも「少し贅沢なひととき」が売りの店だ。そのため、値段もそれなり。学生が気軽に通える価格帯ではないが、だからといって一般庶民にとって手が届かないほどでもないという絶妙なラインだ。 若者の「休日焼肉」は現代の特権か ランチタイムには多くの若い人たちが楽しそうに焼肉を囲む姿があった。一見、平和で豊かさを象徴するシーンだが、よく考えてみるといくつかの疑問が浮かんでくる。 「この人たちは、どうやってこの贅沢を実現しているのだろうか?」 若者が焼肉KINTANに来る理由は様々だろう。社会人として自分で稼いだお金で楽しんでいる人もいれば、親からの仕送りやアルバイト代をやりくりしている学生もいるだろう。それでも、ランチとはいえ、贅沢な焼肉を気軽に楽しむ光景は、現在の日本が抱える経済的格差の縮図のようにも見える。 焼肉の香りの裏に見える「格差の現実」 日本では物価高が進み、収入が追いつかないという声が…

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教育の値札:日本の大学、経済原理と社会的使命の間で揺れる現状

日本の大学が「金欠」で悲鳴を上げているという話題は、耳に新しいわけではありません。 しかし、この問題は単なる数字の話ではなく、教育の本質、社会の構造、そして未来の人材育成に深く関わる問題です。これを皮肉を交えて、少し癖のある視点から掘り下げてみましょう。 学費は「据え置き希望」から「現実対応」へ 学生たちは学費を上げられると困ります。それは誰しも理解できる話です。 しかし、ここで立ち止まって考えてみてください。「物価高が進む中、教育費だけが例外で据え置かれるべき」という主張が、経済的な現実に即しているのでしょうか? たとえば、大学がこれまでの運営を維持するには、どこからかお金を調達しなければなりません。それは税金なのか、あるいは企業からの寄付か。それとも、学費という形で学生やその家庭から徴収するべきなのでしょうか? かつての「お金を払う覚悟」と現代の優遇措置 昔の受験生は、大学の滑り止めに支払った入学金が返金されないことに納得していました。 「仕方ない」と割り切る考え方がありました。しかし、今ではその入学金が返還される仕組みが一般化しています。 これを「優遇」と呼ぶべきか、それとも「進化」と呼ぶべきかは議論の余地がありますが、学生側の金銭的負担を軽減する方向に動いていることは間違いありません。 この流れを受けて、現代の学生たちがさらなる学費据え置きを求める姿勢は、少々「都合が良すぎる」と思うのは筆者だけでしょうか。教育は無料であるべきだ、とい…

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ひな壇芸人の「リアクションの美学」:作られた共感に潜む社会の裏側

バラエティ番組の華ともいえる「ひな壇芸人」。 彼らが繰り広げる絶妙なリアクションとトークのやりとりは、笑いと感動を届ける日本のテレビ文化の象徴だ。しかし、私たちが何気なく見ているその「リアクション」は、果たして本当に自然なものなのだろうか? 無理してでも笑え!ひな壇芸人のリアクション経済学 ひな壇に座る芸能人たちは、司会者や他の出演者が語る一つ一つの言葉に、まるでスイッチが入ったように反応する。 「うわー!」「えぇー!」「それって本当ですか?」という驚きの声、顔芸、そして拍手喝采…。だが、冷静に考えてみてほしい。日常の会話で、そこまで大げさにリアクションを取る人はいるだろうか? 実際、一般人のコミュニケーションでは、多くの話題は「ふーん」で終わることがほとんどだ。むしろ、沈黙やスルーが占める割合の方が高い。では、なぜひな壇芸人たちはここまで全力でリアクションを取るのか? その背景には「リアクション経済学」が潜んでいる。テレビの画面越しに視聴者を引きつけるには、情報量が必要だ。何もしなければ、「つまらない番組」と判断される可能性が高い。そこで、彼らは「無理してでもリアクション」を取るという共通ルールに従い、視聴者の注意を引くための努力を惜しまないのだ。 「会話が弾むヒントが詰まった本」 - バラエティ番組のトークの秘密やコミュニケーション術を学べる一冊。ひな壇芸人たちの裏側に迫る! リアクションの「型」:無意識に刷り込まれる共感の仕草 気…

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朝カフェでぼーっとする「おじさん」の正体──なぜ彼らは窓の外を見つめるのか?

朝の時間、カフェで目にする光景にこんな場面はないだろうか。 アイスコーヒー片手に窓の外を見つめる人たち──特に年配の男性や、仕事前の女性たち。スマホを触るわけでもなく、本を読むわけでもなく、ただぼんやりと。 「これって一体何をしているの?」と疑問を抱きつつ、よくよく考えてみると、彼らには彼らなりの深い理由があるのかもしれない。 この記事では、「朝カフェでぼーっとする人たち」を掘り下げ、その心理、背景、そしてこの過ごし方の意味について考えてみたい。 ぼーっとする「おじさん」と「女性」の違い おじさんの場合:人生を背負ったリセットタイム 特に60代近くのおじさんが、朝カフェの常連として目立つ。スーツ姿ではなく、カジュアルな格好で入店し、長時間窓を見つめている。 これ、彼らにとっては「心の充電時間」なのだろう。 現役時代に溜め込んだストレス。家族への責任感。今やそれらの重圧が少し和らぎ、彼らの目には「もう頑張りすぎる必要はない」という悟りにも似た表情が浮かんでいるのかもしれない。 だが心配もある。「毎日こんなにぼーっとしていて大丈夫?」と思ってしまうのは、こちらの価値観の押し付けかもしれないが、健康面や社会的な孤立を懸念する声も少なくない。 女性の場合:朝カフェでの「生活の整え」 一方で、30〜40代の女性たちも、朝カフェのぼーっと族の一員だ。 彼女たちは往々にして洗練された身なりで、ラテを片手に過ごしていることが多い。この姿に…

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令和の「へそ出しファッション」が語るものとは?

繁華街を歩けば目に入るのは、多くの若い女性たちが大胆にお腹を露出させた「へそ出しファッション」を楽しむ姿。かつて1990年代のギャル文化を思い出させるこのスタイルが、令和の時代に新たな形でリバイバルしているのです。ただの懐古ではなく、むしろ時代のメッセージを反映したファッションとして再注目されています。 なぜ彼女たちは「へそ」を出すのか?お腹を見せることには、一体どんな意味があるのでしょうか?この記事では、令和版へそ出しファッションが持つ背景や意図、そして現代を生きる若者たちの心情に迫ります。加えて、なぜ、へそ出しファッションをするのかという心理について考察します。 東京の猛暑が育んだ新スタイル 東京の夏。気温は35度を超え、湿度はまるでサウナ。涼しさを求めるのは至極当然ですが、彼女たちが選ぶのは短パンでもノースリーブでもなく、なぜか「へそ出し」。この選択肢に隠された理由は、単なる暑さ対策ではありません。むしろそこには、ファッションを通じて自己表現しようとする強い意志が感じられます。 服はただの布ではありません。時代背景やその人のアイデンティティを象徴する「メッセージツール」です。 令和版のへそ出しファッションは、「私はこういう人間です」というサインとも言えます。痩せ型の人、健康的な体型の人、それぞれが自分らしさを誇りに思う姿勢を体現しているのです。 ファッションの歴史を振り返れば、ミニスカートやデニム、オーバーサイズシャツなども、当初は抵抗や違和感を持たれたも…

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能面の笑顔、カフェのリアル──「感情」を失う美人店員の謎

「いらっしゃいませー。」 この言葉に、温かさを期待してはいけないのだろうか。 ある日訪れたカフェの店員さんは、まるで能面のようだった。 その女性店員は間違いなく美人だった。スラリとしたスタイル、整った顔立ち。しかし、目を合わせることはなく、笑顔を見せることもない。注文を受け、商品の提供、会計まで、全てが完璧にこなされている。それでも、そこには一切の「感情」という名の潤滑油が感じられなかったのだ。 「お客さんを物のように見ているのか?」とさえ思わせるほどの無機質さ。いや、もしかしたら、彼女は接客業という戦場で身を守るため、敢えて感情を切り離したのかもしれない──そんなことを考えながら、私はコーヒーをすする。 カフェ店員の「能面問題」を紐解く この「能面のような店員さん」、いったいなぜそんな無表情で接客するのか。ここにいくつかの要因が見えてくる。 1. 感情労働の疲弊 接客業は「感情労働」の最前線だ。 笑顔を求められ、時には理不尽なクレームにも「申し訳ございません」と頭を下げる。これを毎日繰り返す中で、感情そのものをコントロールするスキルが磨かれるのは確かだが、それが「感情を失う」にまで至ることも少なくない。 無表情の店員は、単に疲れ切っているだけかもしれない。笑顔の裏に隠されたプレッシャーとストレス、それに伴う心理的なコストを軽減するため、無意識に「能面スイッチ」を入れているのだろう。 2. 日本的美徳と空気の読み…

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マラソンで世界をつなぐ:走る喜びと地域の絆

「マラソン」と聞くだけで心臓がドキドキする人、多いのではないでしょうか? 学生時代、体育の授業や部活動で、あの永遠に終わらないように感じるトラックを周回し続けた苦い記憶。あるいは冬の寒空の下、校外マラソンに送り出され、肺が焼けるような思いで走ったあの日々。正直、楽しいなんて思えるものではなかった――当時は。 しかし、大人になった今、「市民マラソン」という独特な文化に触れると、あの頃とは違う「走ることの意味」に気づきます。ただの競技ではなく、地域全体で織り成す大きな物語のようなもの。 地域マラソンの魅力は“非日常”と“つながり” ある地域で開催される市民マラソンに参加することがありました。驚いたのはその雰囲気。 年齢も性別も違うランナーたちが、それぞれの思いや目的を胸にスタートラインに立つ。沿道には地元の人々が集まり、声援を送り、特産品を振る舞う。こんな風景、なかなか日常では味わえません。 「走る」というシンプルな行動の中に、まるで地域全体が一つのチームになるような一体感がありました。そして、これはランナーだけではなく、応援する人、ボランティア、運営スタッフも巻き込んだ“大人の文化祭”なのです。 例えば、ホノルルマラソンでは、ワイキキビーチやダイヤモンド・ヘッドといった観光名所を駆け抜けながら走ることができます。普段なら車窓から眺めるだけの景色が、自分の足で踏みしめる地になる――これぞ、非日常の体験です。 分断社会をつなぐ「走る力」 …

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